主体的治療と専門家に頼ること

今回は全くまとまりのないつぶやきです。

60歳代後半の糖尿病患者である私の知人2人にはいくつかの共通点があります。

[糖尿病治療の考え方]
糖尿病のことは医師に任せる、という態度と思われること

[糖尿病治療の様子]
HbA1c6%台を維持し薬を飲んでいる
カロリーに気を配り、一緒に食事をすると、脂肪はあまりとらないようにしているようである
ご飯は少なめだが麺類はあまり気にせず食べている

[仕事]
ご自身の仕事の領域で高い業績を上げ現在も活躍している。私も尊敬をしています。

この二人を見ていて、糖尿病治療についてこれもありだな、と思います。
私は糖質制限のほうが望ましいと思っていますし、彼らと同じ対処をすることは合併症の危険もあると思います。しかし、それはあくまで一つの考え方で、日本糖尿病学会の目安のHBA1C7%未満を達成しているのだから、それほどリスクのある状態ではないとも考えられます。

私の勝手な推測ですが、二人ともご自分の分野で高度な専門家なので、自分が専門外であることについては専門家に任せることが当然、という考え方なのではないかと。専門家である医師の選択は慎重に納得がいくようにされているようです。

現在の世の中は、人の役割分担が進んでいるというのか、それぞれが何らかの専門家として働いています。
私も自分の専門分野で仕事をしています。社会科学・人文科学の分野なので、そもそも絶対の正解はなくクライアントの考えが正しいことも多いです。
とはいえ、確率的に専門知識とその分野での思考法を身につけている専門家の方が、その分野の素人より正しい確率が高いと思います。

医学は高度な専門領域です。ですから素人考えより専門家の考えのほうが正しい確率は大きいと思います。
自分の病気について、信頼できる専門家の意見に従う、という態度は自然というか賢明なことだと私は思います。

私自身は、糖尿病発覚時に江部先生のブログにたどり着き糖質制限を選択したわけですが、「江部先生の言っていることを信頼し任せた」という言い方もできるわけで、カロリー制限+薬で対処している私の知人と医療の専門家への依存、という点ではそれほど変わらないのではないかと思います。
選択の結果・治療方法が異なるだけで、病気を悪くしたくないというのは同じではないか、と感じます。

「主体的治療」という言葉はたがしゅう先生のブログで知りました。そこからあれこれ考えたわけですが、主体的治療は自分の人生を自分で決めるという主体的生き方の一部だと思います。

他人に「主体的に生きろ」と言われて生き方を変えるのは、もはや主体的選択とは言えません。
他人に「主体的に生きろ」というのは、他者に自分が考える生き方を強制しているようにも感じます。

自分の主体的な生き方を大切にしようとすればするほど、他者の生き方、考え方も大切にしたいと思います。

微妙な言い回しかもしれませんが「○○するべき」というような「べき論」は、社会ルールを守れ、という時には良いのでしょうが、他人の生き方について使うと、相手に自分の正しさを押し付けているようで抵抗感があります。

「日本糖尿病学会は糖質制限を認めるべき」、これは考え方についての議論ですから「べき」も使ってもよいのかもしれません。しかし「べき」を使うと、認めない日本糖尿病学会に対してだんだん腹立たしくなってきて、自分のストレス管理にもよくないので「早く認めてくれるとよいなあ」「認めてくれなくて残念だなあ」くらいの気持ちでいるようにしています。

知人のお二人には合併症を発症せずながく活躍していただきたいので、糖質制限も問い入れてくれたらよいのに、と思っています。私にできることは私の実績を見せていくことだけ、と思っています。そのためにも健康を維持したいものです。

コメント