どうして江部先生はエビデンスにこだわるのか

この記事は、私の主観、それも憶測、ひょっとしたら妄想、邪推の類です。
こんなことを考える人もいるのかも、という程度でお読みください。

江部先生の「エビデンスレベル」の使い方

江部先生のブログでは、糖質制限反対派のデータや見解について、エビデンスレベルを用いて反論されていることが多いように思います。
最近の例でが、東北大学農学部都築准教授の「糖質制限は老化を早める」という実験をブログのコメントの中で「まだ論文化もされておらず、エビデンスレベルはゼロです」と書いています。

エビデンスレベルとEBM

エビデンスレベルというのは、EBM(エビデンスベースドメディスン≒根拠に基づく医療)の枠組みの中にある考え方です。

医師が自分の経験や考えで治療法や薬を選択するのではなく、根拠に基づく選択をしよう、という趣旨です。その根拠として主に論文を活用し、さらにどの論文を用いるかが主観的・恣意的にならないように、論文などの根拠にもエビデンスレベルという枠組みを設けて客観的な選択をしようということだと思います。このような枠組みを作ること自体医学・医療の倫理の高さを示すものと思います。患者としても自分が受ける治療について安心できます。

糖質制限による糖尿病治療とEBM

EBM,エビデンスレベルという考え、枠組みを使うと、江部先生の推奨するスーパー糖質制限による糖尿病治療のエビデンスは、症例報告のようなエビデンスレベルの低いものだけです。長期の安全性に至ってはエビデンスゼロです。

エビデンスのある根拠に基づく医療を行おうというEBMの考え方からすれば、スーパー糖質制限による糖尿病治療は認めれらないことになります。

ですから、江部先生がエビデンスレベルを論拠とすることは、論理的に矛盾している側面があります。

なぜ江部先生は「エビデンスレベル」を使うのか

このような論理矛盾は江部先生は当然わかっていると思います。ではなぜ、論理矛盾するエビデンスレベルを取り上げてるのでしょうか。

糖質制限批判には、医師が、自分が糖質制限で体調を崩したから糖質制限は危険だ、というパターン、結構あります。
科学的には疑わしい、信頼性が低いとわかっているような論文、データを使って、医師がだから糖質制限は危ない、と主張するパターンもあります。
(私は何らかの意図を感じる場合ことがあります)

このような時に、それが科学的でない、とか、論理的でない、といった否定の仕方では、お前の考えはおかしい、売るようなものです。まして何らかの意図があるだろう、ということになると、それ自体が憶測ですから議論ですらなくなってしまいます。

エビデンスレベルの指摘だけであれば、主張の根拠にしたデータについてのみの指摘ですから、穏やかな、というか専門家同士であれば比較的角の立たない否定の仕方なのではないでしょうか。また、ブログでの解説でエビデンスレベルだけで済ませることができて便利、ということもあるのかもしれません。

専門家が自分の主張をするために、非専門家がわからない知識、データで説明を都合よく使う、ということは、倫理的にはよろしくないと私は思います。しかしそれを専門家同士でやり取りすると、相互攻撃になりかねない危険もあるように思えます。

東北大学都築准教授の発表に思うこと―憶測

学者の業績は、特に国立大学の教員・研究者は、一般的には論文が業績です。学会発表の後それを論文にまとめてその学会に投稿することはよくあることだと思われましが、学会発表しただけの研究やデータをマスコミに公表したりTVで取材を受ける、ということは普通はあまりやらないのではないかと思います。

信頼性の高い(権威のある)学術雑誌や学会の論文には、客観性の高い研究を求めるので、論文に研究資金がどこから出ているかを明記するよう規定していることが多いようです。利益相反(研究に何らかの影響を与える可能性のある要素)を排除する、ことは、医学だけでなく多くの分野でうるさく言われるようになっているようです。

東北大学農学部の研究はどうなのでしょうか。論文に研究資金についても明記されるのでしょうか。どんな性質の学会なのかにもよりますが。
(妄想レベルが高くなりすぎたのでここまでにします (-.-;) )

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