糖尿病を「受容」するとは

糖尿病をありのままに受け入れる(受容する) ことについて、キューブラー・ロスの「死の受容」を取り上げて以前記事にしました。

https://sf-empower.com/real-acceptance/

糖尿病を受け入れるとはどういうことなのか、自分は糖尿病を受け入れているのか、最近よく考えます。

2型糖尿病は、治らない病気でかつ進行性(徐々に悪くなる) とされています。

糖尿病を受け入れるとは、この事実(あるいは主張)を受け入れることだと思います。

もちろん、まれに寛解に至る人もいます。今後完治の方法が発見されるかもしれません。

しかし、現状はそうではない、完治すると実証された方法がないことを受け入れること、が糖尿病の受容ということだと思います。

私は、皆さんご存知のように、糖質制限で血糖コントロールしています。

よくコメントをくださるモン吉さんのように、数年で耐糖能が向上し通常人並み(ほぼ完治)といえる状態に戻ること(これをreverseというのでしょうか)を期待してはいます。

しかし、ずっと今の状態が続く、あるいは加齢により徐々に今よりさらに耐糖能が下がることもあり得る、よくならない可能性がかなりあることを、受け入れることが糖尿病の受容であると思います。

糖質20g程度の食事をして食後血糖値のピークが150だった場合、単に確認して終わり、あるいは、よしよし、と思ったりします。この瞬間は糖尿病が『受容』できていると思うのですが、、、
「たったこれだけで150か、、」とふと悲しくなることがあります。これは『受容』できていない状態だと思います。

私の仕事部屋は家の2階にあります。先日、家で仕事をしていてお昼になりそろそろ食事をしようかと1階のリビングにおりたら、遊びに来ていた娘と娘婿と奥さんの3人がお昼ご飯にうどんを食べていました。それをみた瞬間、猛烈に悲しくなりました。これも『受容』できていないからだと思います。

このような悲しみがあるのも当然さ、と受け入れるのが『受容』かもしれません。

 

『受容』は、「健全なあきらめ」ではないかと思うこともあります。食事に不具合を感じること、好物を食べられないこと、家族と同じものが食べられないこと、家族にも気を遣わせてしまうこと、そんなことのつらさ、悲しさがあることをそりゃもそうだよね、あきらめて受け入れることかと。

闘病、という言葉がありますが、糖尿病の『受容』は、闘いではないと思います。糖尿病は一生のお付き合い、同居人です。闘うのではなく仲良くして、仲良くしないまでも同居人がいることで生じる不便さを認めながら受け入れることが『受容』ではないかと。

『受容』できていないと、どこかで心に無理が生じてストレスになり、糖尿病治療にもマイナスになるのではないでしょうか。

糖尿病の『受容』が、「健全なあきらめ」であるとして、そのうえで、楽しく暮らすことが、死ぬまでずっと続くであろう生き方のテーマ になりそうです。

あ、もちろん、同居人「糖尿病」との付き合い以外に、沢山人生の楽しみも課題もありますよ。

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